創設者の物語

甲斐 和里子

明1.6.15~昭37.11.27

西本願寺の要職にあった足利義山の五女として、広島勝願寺に生まれる。明治19年(1886)から3年間広島私立開成舎で学び、明治26年(1893)に京都同志社女学校英語専科に入学。以後、3年間にわたって在学した。明治32年(1899)には松田甚左衛門とともに、仏教精神に基づく教育を目的とした顕道女学院を創設した。翌明治33年(1900)には、その志と理念を貫くため顕道女学院を退き、夫・甲斐駒蔵とともに文中女学校を経営。明治43年(1910)に私立京都高等女学校の経営が西本願寺へ移されたことに伴い、その後は、本校教諭として昭和2年(1927)春まで勤務した。大正13年(1924)12月5日の貞明皇后行啓の際、本学園は皇后から「心の学校」という御言葉を賜ったが、その時、女子教育に情熱を傾けた和里子に対し、皇后は「よくやってくれた」というねぎらいの言葉をかけておられる。

甲斐 和里子

大谷 籌子

明15.11.5~明44.1.27

西本願寺鏡如(光瑞)門主夫人。九條道孝の三女として九條家に生まれる。明治31年(1898)に鏡如法嗣と結婚。以後、仏教婦人会総裁として婦人教化につとめ、さらに近代仏教婦人会創成に尽した。仏教婦人会の事業として私立京都高等女学校経営に熱意をそそぐ一方、京都女子大学の設立を推進した。また、明治40年(1907)より東京の女子文芸学校(島地黙雷創設)を積極的に後援した。明治44年(1911)1月逝去。その遺志は九條武子本部長に受け継がれた。

大谷 籌子

九條 武子

明20.10.20~昭3.2.7

西本願寺明如(光尊)門主の二女。九條良致夫人。明治40年(1907)に仏教婦人会連合本部長に就任し、以後、大谷籌子裏方をたすけ、近代仏教婦人会創成につとめた。
明治43年(1910)、仏教婦人会の事業として私立京都高等女学校の運営をはじめ、浄土真宗本願寺派関係学校の女子教育振興につとめた。京都女子大学設立に尽力したが、これが認められず、その情熱は大正9年(1920)、日本初の女子高等専門学校として結実することとなった。文芸に秀で、短歌を佐佐木信綱に、花道を西川一草亭に師事。また絵画を上村松園について学んだ。著書に『無憂華』、歌集に『金鈴』があり、歌人としても有名である。

九條 武子


このページの先頭へ