揺籃期から成熟期へ

学園の創始 —顕道女学院と文中女学校—

今から116年前、西本願寺の門前、花屋町に、ささやかな女子教育機関が誕生した。名称を「顕道女学院」といい、入学生は10数名。当時京都には、府立高等女学校をはじめ女学校は4校しかなく、その内2校はキリスト教主義の学校であった。「仏教都市である京都に、仏教主義の女学校が一つもないことは申し訳ない」と甲斐和里子は、明治32年(1899)、松田甚左衛門の助力を得てこの私塾を開いたのである(学園の創始)。ところがこの年、文部省は宗教教育を禁止する訓令を発布し、顕道女学院内にも宗教教育を自粛する傾向が強まった。そこで和里子は、その志と理念を貫き仏教主義教育を実践すべく、翌年9月、夫・駒蔵とともに「文中園」という私塾を開き、その2カ月後には、正式に認可を得て「文中女学校」と改名している。

梅小路堀川西入にあった頃の文中女学校。写真は明治36年から明治43年(京都高等女学校と合併)までの間に撮影されたもの

梅小路堀川西入にあった頃の文中女学校。写真は明治36年から明治43年(京都高等女学校と合併)までの間に撮影されたもの

仏教婦人会による学園の創立

明治40年(1907)、各地に設立された浄土真宗本願寺派の仏教婦人会を統括する組織として、仏教婦人会連合本部が設置され、翌年、初めての仏教婦人会連合大会が開かれた。この大会の成功を契機として、女子高等教育の必要性を痛感していた大谷籌子仏教婦人会総裁と九條武子連合本部長は、婦人会の事業として女子大学の設立を決意する。そして籌子総裁は、夫・良致の留学に伴って出国した武子本部長と共に、精力的に欧州の女子教育事情を視察した。
一方、甲斐夫妻は、明治43年(1910)に仏教婦人会の援助を受けて、文中女学校と矢部善蔵経営の「京都高等女学校」を合併、この学校の経営を仏教婦人会連合本部へ移譲した。本学園では、この年を創立年としている。
翌年、同じく矢部善蔵経営の「京都商業女学校」を併合、「京都裁縫女学校」と改称し併設した。

京都高等女学校発足当時の正門(五条通堀川西入柿本町、明治40年代)

京都高等女学校発足当時の正門
(五条通堀川西入柿本町、明治40年代)

明治40年代頃の京都高等女学校の卒業記念写真

明治40年代頃の京都高等女学校の卒業記念写真

校地移転と幼稚園の設立

明治43年(1910)11月、籌子総裁と武子本部長は、欧州より帰国。ところが、そのわずか3カ月後、籌子総裁は病に倒れ帰らぬ人となる。籌子総裁という指導者を失ったことは、女子大学設立運動を進めていく上で大きな痛手ではあったが、その事業は、武子本部長へと受け継がれていったのである。
2年後の明治45年(1912)3月には、籌子総裁の追慕会に際して、武子本部長から全国の仏教婦人会幹部に対し「女子大学設立趣意書」が発表される。さらにその後、女子大学創立を目ざす運動は活発になり、大正2年暮には手狭となった校地を大谷家の所有地(現高等学校・中学校敷地北半分、昭和19年大谷家より寄贈)へ移転する工事が始まり、大正3年11月に移転式を挙行した。

幼稚園設立当時の園舎

幼稚園設立当時の園舎

現在地に移転当時の京都高等女学校・京都裁縫女学校の全校生徒と教員(大正3年11月)

現在地に移転当時の京都高等女学校・京都裁縫女学校の全校生徒と教員
(大正3年11月)

京都女子高等専門学校設立

仏教婦人会連合本部は女子大学の実現に努力を重ねたが、当時の男尊女卑の風潮は頑強であって、社会は女子の大学設立を許す状況にはなかった。
大正7年(1918)に東京女子大学が設立され、さらに翌年2月には神戸女学院が大学部を設置。「大学」の名称を冠する女子高等教育機関は、従来の日本女子大学校を加えると3校となったが、いずれもキリスト教主義の学校であった。この年、主として財政上の問題から設置申請の遅れていた本学園も、文部省に対して「京都女子大学」の設置を申請したが、文部省は急遽方針を転換してこれを許さず、結局、翌大正9年(1920)に「京都女子高等専門学校」として開校されることとなった。

移築後間もない頃の錦華殿2階の一室

移築後間もない頃の錦華殿2階の一室

京都女子高等専門学校の全校生徒。右が錦華殿、左が本館講堂(大正10年)

京都女子高等専門学校の全校生徒。
右が錦華殿、左が本館講堂(大正10年)

東山三校の発展

「女子大学」の名称をつけることは認められなかったとはいえ、京都女子高等専門学校は、日本女子大学校、女子英学塾(現津田塾大学)などと並んで、当時全国に10指にも満たなかった女子の最高学府であり、女性初の衆議院議長となった土井たか子氏や作家の山崎豊子氏をはじめ、女性の社会進出に貢献する人材を輩出していった。女専(京都女子高等専門学校)と、高女(京都高等女学校)、裁女(京都裁縫女学校)は、京都の人々に「東山三校」と呼称され、社会的な評価を確たるものとした。

昭和初期のキャンパス

昭和初期のキャンパス

京都女子高等専門学校での化学の授業(昭和初期)

京都女子高等専門学校での化学の授業(昭和初期)

大正15年に建築された同窓会館(木造三階建)

大正15年に建築された同窓会館(木造三階建)

高等女学校時代の授業風景(昭和3年頃)

高等女学校時代の授業風景(昭和3年頃)

「心の学園」の由来

大正13年(1924 )12月5日、貞明皇后(大正天皇の皇后、大谷籌子裏方の妹君)の行啓があった。「三校」の生徒の演技、幼稚園児の遊戯、甲斐和里子の授業をご覧になった後、寄宿舎において不断の宗教的雰囲気を感じ取られた皇后は、「あたたかに、そして香りゆかしき心の学校である」との言葉をのこされた。
このことは、親鸞聖人の体せられた仏教精神に基づく本学園の宗教教育が高く評価され、社会的に広く認められたことを表している。本学園はこの至言を力として、その後おとずれるさまざまな苦難を乗り越えていくことになる。本学園は12月5日を「心の学園記念日」と定めて、毎年記念式典を挙行している。

貞明皇后が第8校舎で京都高等女学校の授業をご覧になった後、花壇にお入りになるところ

貞明皇后が第8校舎で京都高等女学校の授業をご覧になった後、花壇にお入りになるところ

貞明皇后の行啓記念写真。お出迎えは大谷尊由師、九條武子本部長(大正13年12月5日)

貞明皇后の行啓記念写真。お出迎えは大谷尊由師、九條武子本部長
(大正13年12月5日)

戦時下の学園

日中戦争の拡大は、学生生活にも暗い影を落とし始めていた。特に太平洋戦争が始まると、授業どころではなくなり、学生達は学徒動員として軍需工場の労働などに従事することになる。京都高等女学校の生徒は、宇治大久保の日本国際航空工業などで働いた。また、京都女子専門学校(昭和19年京都女子高等専門学校を改称)の学生は、国文科が宇治の火薬庫で弾薬を作り、保健科は大丸デパート地下工場で飛行機部品などを造った。校舎の一部も徴用されて、兵器工場と化していた。一般には京都に空襲はなかったと言われているが、京都女子専門学校第三小松寮と京都幼稚園は、B29爆撃機の空襲によって破壊されるという被害にあっている。

動員で三菱電機伊丹製作所に勤務するため、早朝に同所の寮を出発する京都高等女学校生徒(昭和19年9月)

動員で三菱電機伊丹製作所に勤務するため、早朝に同所の寮を出発する京都高等女学校生徒(昭和19年9月)

幼稚園の遊戯「蟻の演習」(昭和11年)。園児らも兵隊姿に

幼稚園の遊戯「蟻の演習」(昭和11年)。
園児らも兵隊姿に

爆撃で吹き飛ばされた第三小松寮

爆撃で吹き飛ばされた第三小松寮


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