発展期 その50年

学制改革と高等学校・中学校の発足

戦後の学制改革により、学校制度が小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年の、いわゆる6・3・3・4の単線型に改められ、同時に従来6年であった義務教育年限が9年に延長された。また男女共学制も導入された。
本学園でも、昭和22年(1947)に京都女子中学校を設置し、翌23年には京都女子高等学校を設置した。高等女学校の生徒がまだ在学していた昭和25年(1950)の在籍者数は、中学校1413名、高等学校1007名で、中学校の生徒数が高校を上回っていた。

新制高校発足当時の高等学校・中学校の正門と生徒(昭和23年)

新制高校発足当時の高等学校・中学校の正門と生徒(昭和23年)

京都女子大学の開学

戦後の学制改革により、高等学校に続く学校は4年制大学を原則とし、専門学校を廃止する方針が打ち出された。伝統のある、わが京都女子専門学校も、大学へ昇格しなければ廃校となる運命にあったが、昇格に当たっての最大の難関は、校地・校舎の整備だった。そこで増山学園長のもと、学園関係者は一致団結して「昇格期成同盟会」を組織し、資金の寄附を募った。そして、従来の校地の東側にあった、本願寺本末共保財団所有の松林(現A・L校舎敷地)を取得し、大学用の新校舎(第15校舎)を新築して、この苦難を切り抜けたのである。
昭和24年(1949)に京都女子大学を開学し、その翌年には京都女子大学短期大学部を開設。また、昭和26年(1951)には、私立学校法の施行に伴い、学園内各学校の設置者を財団法人龍谷女子学園から「学校法人京都女子学園」に変更した。

「京都女子専門学校」の門標を「京都女子大学」に掛け替える増山学園長(昭和24年3月)

「京都女子専門学校」の門標を「京都女子大学」に掛け替える増山学園長
(昭和24年3月)

開学まもない頃の京都女子大学の授業風景

開学まもない頃の京都女子大学の授業風景

第15校舎(昭和24年3月竣工)

第15校舎(昭和24年3月竣工)

小学校の開校、教育学科の設置

昭和29年(1954)、文部省は「小学校教員、幼稚園教員を養成する場合には、教員養成を主たる目的とする学部・学科を設けなければならない」という審査内規を決定する。すでに多くの優秀な小学校あるいは幼稚園教員を輩出していた本学も、家政学部児童学科に加えて、この内規に基づく特色ある小学校教員養成課程の増設を計画し、昭和31年(1956)、大学の文学部に「初等教育学科」を、短期大学部に「初等教育科」を設置した。
さらに翌年には、「京都女子大学附属小学校」を開校し、全国でも有数の女子の総合学園が創成されたのである。昭和39年(1964)には大学初等教育学科を「教育学科」に改組し、初等教育学専攻に加え、新たに音楽教育学専攻を設置した。

京都女子大学附属小学校の第1回入学式(昭和32年4月)

京都女子大学附属小学校の第1回入学式(昭和32年4月)

大学院開設と教育研究の充実

京都女子大学は、京都女子高等専門学校時代から、女子の最高学府として高度な教育と研究を行ってきた。その実績が社会から広く認められるに至り、昭和41年(1966)には、さらに充実した専門的な研究を行う機関として、当時の女子大学としては先進的な文学研究科、家政学研究科からなる京都女子大学大学院が設置された。
以来、一流の研究スタッフを多数集め、女子大学ならではの特質を生かしながら独自の画期的な研究成果を残している。

大学院開設当初のゼミナール風景(昭和40年代初期)

大学院開設当初のゼミナール風景
(昭和40年代初期)

学生急増期の学園

昭和30年代に入るとベビーブームの影響により、高等学校・中学校は両校合わせて毎年千数百名の新入生を迎えることとなる。1学年で20を超えるクラス編成となり、全校生徒も4千数百名を数えた。
続いて昭和40年代に入ると、大学・短期大学部の学生数も約6千名となり、学園の在籍者数は1万人規模となった。
この頃には、全国の大学生人口は100万人を突破し、次第に学生と教職員との対話が稀薄になりつつあった。そして数によるパワーは、全国の大学を学園紛争という大きな渦の中へ巻き込んでいくことになる。きめ細やかな教育指導を実施してきた本学にも、やがて学園紛争の波が押し寄せてきた。

拡充される施設

教育・研究環境の改善を図るため、昭和41年(1966)にE校舎、翌年にはC校舎が完成した。その後も施設拡充のための努力が重ねられ、昭和55年(1980)の大学・短期大学部体育館、音楽棟完成に至るまで、学園内には次々と新しい建物が新築された。これによって、木造校舎が立ち並ぶキャンパス風景は、大きく様変わりしていく。
またこの時期、大学・短期大学部では、学長公選制の導入や、教授会、事務組織など諸機構の整備が進められた。
一方、中学校・高等学校では、昭和44年(1969)に6年一貫教育制度を導入し、本学園の特色を生かした教育内容のさらなる充実をめざすことになった。

中学校中庭での合同朝礼(昭和43年)

中学校中庭での合同朝礼(昭和43年)

基盤整備と発展計画

昭和51年(1976)の学生定員増申請以来、大学・短期大学部は慢性的な校地不足の問題を抱えていた。昭和58年(1983)12月、就任間もない二葉憲香学園長のもと、学園は、校地充足を中心とした基盤整備計画と、教育研究体制の確立・施設設備の整備充実・学部学科等組織再編を柱とする発展計画を策定する。
そして、図工棟の新築、東山キャンパス(中心校地)の拡充、昭和63年(1988)の大原野校地の取得、平成2年(1990)大原野第二期工事の完成によって基盤整備計画を完了。平成3年(1991)の短期大学部学科・専攻の名称変更、平成4年(1992)3月の総合校舎(J校舎)と学生会館(K校舎)の新築、平成5年(1993)の大学の学科改組、平成7年(1995)の文学研究科教育学専攻の設置などを経て、創立90周年(創始101年)を迎えた平成12年(2000)、現代社会学部の開設、現代社会学部用校舎(S校舎)の新築、錦華殿の復興などによって一挙に花を開かせることになった。

学園東山キャンパス遠景(昭和45年頃)

学園東山キャンパス遠景(昭和45年頃)

大原野キャンパス(昭和63年用地取得。平成元年造成工事完了。平成2年、管理棟・弓道場・アーチェリー場建築などの第二期工事が竣工)

大原野キャンパス(昭和63年用地取得。
平成元年造成工事完了。
平成2年、管理棟・弓道場・アーチェリー
場建築などの第二期工事が竣工)


このページの先頭へ